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風の森通信 第2336号


書家  熊谷 喜美雄 作品集


¨ご当地ソング¨新民謡「気仙沼小唄」のこと 



上写真クリックで拡大されます (29cm×76㎝)


  「気仙沼小唄」

      作詞 菊地 勤
      作曲 栗原 勉
      編曲 藤本琇丈

  気仙 気仙沼よいよい港
  かつお萬両しび(鮪)萬両
  河岸の甚句でまた夜が明けて
  それさ入り来る大漁船
  やんれほんとに大漁船

  浜見山から港を見れば
  浦に黄金の花が咲く
  出船松前入るは上総
  それさ紀州は泊り船
  やんれほんとに大漁船

  浦の港に灯ともし頃は
  柏の岬に夕日が映えて
  明日も日和か出船の唄に
  それさかもめの沖で鳴く
  やんれほんとに大漁船

  気仙気仙沼七坂八坂
  白い鴎の飛ぶ海に
  船が出て行くメリケン船の
  それさ別れの笛がなる
  やんれほんとに大漁船


◆新民謡運動から生まれた「気仙沼小唄」

 大正時代後半から昭和の中頃、新民謡運動が興りました。
愛郷心を高めようと郷土の名所や名物・名産、歴史などをPRする歌謡調の民謡が各地で作られ発表したのです。
それは、「街づくり」「町おこし」に繋ぎ、ソフト面で郷土を売り出し、振興の後押しを進めようとしたのでしょう。
新民謡といえば、『茶っ切り節』(北原白秋作詩・町田嘉章作曲 昭和2年)や『東京音頭』(西城八十作詩・中山晋平作曲 昭和8年)がよく知られています。
 宮城県の新民謡も各所にありますが、『新さんさ時雨』(刈田仁作詩・武田忠一郎作曲・昭和28年)がその代表曲でしょう。

 『気仙沼小唄』は、昭和26年7月4日に発表されましたが、製作の気運の高まりは、やがて実現する市制施行の期待にあったと考えられます。
この時宜に適ってタイムリーに発表し、祝賀と町の発展に役立てようとしたと思われます。
その間、郷土の歌の夢づくりのプランは続き、昭和26年5月(27年1月?)、気仙沼湾観光協会・気仙沼商工会議所は「躍進・気仙沼」にふさわしい歌を目指して公募を始めました

 而して、応募作に審査スタッフ7人があたり、その結果、鼎が浦高校定時制教諭・菊地勤の作品が選ばれました。
作曲は栗原勉が入選。昭和26年7月4日のことでした。曲調は、文字通り小唄調芬々とした緩やかなテンポです。

◆レコーディングと舞踊振付

 いよいよ、タイヘイレコード(のちの日本マーキュリー)・藤浦千恵子の吹込みによりレコードが発売されました。
ほどなく、時代に後押しされ、芸者からスター歌手となった豆千代が吹込んで華を添えました。
曲は和洋楽団をバックに、音韻美しい歌謡調だったと記憶しています。

 故郷を称揚する歌に舞踊の振付も行われました。
振付は、当時、舞踊界の第一人者だった石井漠に依頼。完成後、昭和27年7月16日「鼎座」(南町)に石井漠舞踊団を迎えて盛大に発表会が行われ、「気仙沼小唄」は華々しくデビューしたのでした。
7月16日~17日、気仙沼公民館でも発表会が行われたと「気仙沼市史」は述べています。

◆みなとまつりに登場

 昭和27年8月24日から3日間、第2回みなとまつりが行われ、終日街中に「気仙沼小唄」が響きわたって手踊りの波が続き、気仙沼駅前では小唄に歩調を合わせて盆踊り大会が行われました。(街と港の情報紙『濱らいん』2022年7月号)
それ以来、四季折々の祭典や盆踊りの演目となってみんなに親しまれました。

◆気仙沼市制施行

 「気仙沼小唄」が発表されて2年後の昭和28年6月1日、気仙沼町・鹿折町・松岩村二町一村が合併し気仙沼市が誕生したのです。

◆その後の「気仙沼小唄」

 時期は不詳ですが、美声の民謡歌手・早坂光枝、三味線は地元奏者・藤本秀園により再吹込みが行われてレコードが発売されました。You Tubeで鑑賞できるのがそれです。


◆「目黒のサンマ祭り」にも踊りパレードが登場

 コロナ騒ぎで中止が続いていますが、毎年9月中頃、気仙沼市民有志のパワーが燃える気仙沼港水揚げ活き活きサンマ直送の「目黒のサンマ祭り」(目黒区・田道広場公園)に、気仙沼小唄の踊りパレードが加わって祭りを盛り上げています。


◆後発の「気仙沼音頭」

 ご当地ソング(新民謡)の続編です。
今度は¨音頭調¨のものを・・と、昭和42年9月25日、市民に公募を始めました。
が、結局は本命に適う応募作品はなく、山形大学浅野教授の指導のもとに、作詩は民謡研究家で¨東北民謡の父¨といわれた武田忠一郎、編曲は藤本琇丈と高田弘によって曲は完成し、昭和43年4月15日発表されました。テンポは当然、小唄より早いアレグロ調です。
畢竟、昭和43年6月23日、気仙沼音頭はキングレコード・三橋美智也による吹込みと決定し、同年日本ビクターから発売されました。


〈「気仙沼市史」「気仙沼文化史年表」「濱らいん」を参考に編輯しました。氏名敬称は略しました〉
                 
  令和4年(2022)7月28日  熊谷 喜美雄





 書家熊谷喜美雄氏のこの作品は、2022年(令和4年)7月28日(木)~

仙台市青葉区上杉にある“すずめ屋カフェ”に展示されます。
詳細はすずめ屋カフェまで。
季節毎に作品が入替わって展示されますので是非ご覧ください。

風の森通信 第2325号


書家  熊谷 喜美雄 作品集


民謡に魅かれて・・『気仙坂』


2020年(令和2年)6月作 サイズ32㎝×65㎝
《写真クリックで作品が拡大表示されます》


 気仙坂
 七坂八坂
 九坂十坂目に
 鉋(かんな)を掛けて
 平らめた
 それは 
 嘘よ
 御人足をかけて平らめた

 どこの
 旦那さま
 今朝の寒(しば)れに
 どこさ行く
 姉こ
 騙(だま)しの
 帯買いに

 帯こ
 買うならば
 地よく
 幅よく
 丈長く
 結ぶところは鶴と亀
 鶴と亀
 下がるところは下がり藤
 目出度いところは
 祝い松


『気仙坂』のこと

 岩手県南部から宮城県にかけて唄われる祝い唄で、もとは銭吹きという労働歌といいます。諸説ありますが、権威ある民謡大鑑に学びました。

 江戸時代、南部藩の大迫村外川目や九戸の小久慈に「銭座」という貨幣を鋳造する工場(鋳銭場)があり、そこで鉱石を溶かすのに、炉に風を送り込む「タタラ」を足で踏む時に唄ったのがこの唄といわれています。

 いつの頃からか、唄に三味線の伴奏が付いて祝い唄に。歌詞の「気仙坂」とは、宮城県気仙沼市から岩手県陸前高田市気仙町へ通じる旧道(藩政時代は通称・浜街道)で、七坂も十坂もある悪い道でした。唄に詠まれるからには、難渋を極める峠路だったのでしょう。廃道となって今に残る綱木坂、松ノ坂のコースがそれです。
 険峻な峠路を腕の良い気仙大工が鉋で平らにしたのだと威張ったところ、いや違う、御人足が大勢で平らめたのだ、というたわいのない文句を唄っていますが、節調が誠に面白く風格もあるので祝い唄になったと考えられています。

 そうそう、これでつとに知られるのは、石巻にあった伊達藩の鋳銭場でしょう。町名として残り民謡通の人なら、ああ『斎太郎節』だと思い起こすはず。
 この唄の名の由来にも諸説あり、金華山沖から気仙沼にかけて歌われていた「さいとく節」と呼ばれる祝い唄を起原とする説。「さいとく」が訛って「さいたら」になり、「斎太郎」の文字が当てられたという説や、鋳銭場で働いていた斎太郎という美声の持ち主が、後に漁師となって歌っていたことからその名前が付いたという説もあります。いずれにせよ、銭吹きの労働歌が源となっていることだけは確かでしょう。
※一部「日本民謡大鑑」に拠りました。


 書家熊谷喜美雄氏のこの作品は、2022年(令和4年)5月17日(火)~
仙台市青葉区上杉にある“すずめ屋カフェ”に展示されます。
詳細はすずめ屋カフェまで。
季節毎に作品が入替わって展示されますので是非ご覧ください。

風の森通信 第2319号


東日本大震災から11年


 3月11日は東日本大震災から11年目にあたります。
震災の記憶が薄れてきている時、私の職場の先輩であった書家の熊谷喜美雄氏から、気仙沼にあった震災前のご自宅と、津波に流された後の写真を拝見することが出来ました。
その記憶をご自分のためだけでなく多くの皆様方にも共有してもらいたいと、blog風の森通信でご紹介させていただく許可を得ることができました。
以下の写真は熊谷さんからお借りしたものです。
コメントは熊谷さんご本人から頂きました。


2010年(平成22年)8月13日撮影
震災前の熊谷邸(屋号・賀美家 かみけ)
〈写真をクリックすると拡大されます〉


・上  棟:1963年(昭和38年)3月17日
・建築主:父・熊谷喜一(38歳)


左は表面、右は裏面 (縦36㎝×横9㎝)


2012年(平成24年)8月、奇跡的に瓦礫の中から棟札が発見された。
(注) むなふだ、むねふだとも。
寺社・民家など建物の建築・修築の記録や記念として、棟木や梁など建物内部の高所に取り付けた札。

100m先は気仙沼湾で松原(写真)が広がっていた。 


 その日、午後3時25分頃襲来した約9メートルの巨大津波によって尾崎地区99世帯全戸の家屋・財産が破壊され流失した。
当然不要物は含まれるが、大切な所蔵物はすべて流失し海の藻屑となった。

 ・幾度の書展出品(入賞・入選)作品
 ・古今の和・洋の文学全集、三島由紀夫など個人文学全集
 ・二十代から愛聴したクラシックLPレコード(250余枚)
 ・おびただしい枚数の家族写真(古・新)など


2011年(平成22年)4月16日撮影
震災後の熊谷邸(屋号・賀美家 かみけ)
〈写真をクリックすると拡大されます〉


左手の丘が旧小屋館城跡で「古谷館八幡神社」か鎮座する。鳥居が小さく霞んで見える。
大津波の難から逃れようと200余人の人々が神社の石段を駆け上った。標高約20mだが、浪は中腹まで押し寄せたという。

・旧地の今


2022年(令和4年)3月7日撮影


 低地一帯は「災害危険区域」に指定され、住居建築は不可。
2021年(令和3年)4月、「松崎尾崎防災公園」が完成した。 
植樹した黒松が成長して見えないが、その向こうに私邸があった。
JRバス路線の橋(円形)の向こうに鎮守の森「古谷館八幡神社」が見える。

・完成した「松崎尾崎防災公園」


2022年(令和4年)3月7日撮影


 「防災公園」の一角で北西の方角を撮影した。
右手が北で、左手100m先は気仙沼湾。
高さ7.2mの海岸堤防が築かれた。
○印が当家旧地。


2022年(令和4年)3月7日撮影


南方向を撮影。
堤防に立つと気仙沼湾口が目の前に見える。


 被災地気仙沼ではこの11年で防災力を強化した形で復興が進んできています。
私たちは大震災の記憶を忘れず、またいつ来るか分からない津波の襲来に備えそして伝えていきたいものです。



風の森通信 第2318号


書家  熊谷 喜美雄 作品集


顚しまた顚る修羅の浪 ただ轟々と轟々とただ
(くつがえしまたくつがえるしゅらのなみ ただごうごうとごうごうとただ)


『 -書- グループ2016』出品作品

期日:2016年(平成28年)12月20日~12月25日
会場:東京・銀座 鳩居堂画廊

 あの大変から11年。
新天地・仙台に移住して10年。
言い知れぬ虚しさが湧きおこり、なかなか旧地に足を踏み入れることはできずにいた。
が、ここに至り、平静に立ち戻り回顧する程のゆとりを心に持つようになった。


 書家熊谷喜美雄氏のこの作品は、2022年(令和4年)3月9日~
仙台市青葉区上杉にある“すずめ屋カフェ”に展示されます。
詳細はすずめ屋カフェまで。
季節毎に作品が入替わって展示されますので是非ご覧ください。

風の森通信 第2306号


被災、復興再建のよろこび、またひとつ・・『庚申塔』


 書家であり郷土史家でもある熊谷喜美雄氏(大震災で被災して仙台移住)から再び朗報が届きました。
累代七世が造立した「大日如来石像」が復興再建されて一年。(本稿第2253号 2020/12/17
今ひとつ、心に宿していた「庚申塔」が今回の主役。


移建された庚申塔 高さ1m18cm 幅(最大)68cm 周り(最大)2m
古谷館八幡神社境内から大島・亀山を指呼の間に望む絶佳のロケーション

〈写真をクリックすると拡大されます:以下同〉


震災前、「大日如来石像」に程近い田んぼの道端に件の塔は佇んでいた。


往時の庚申塔 平成2年(1990)11月28日撮影


これも大津波であえなく流失。激浪にもまれて大海に流され、引き返す波でおよそ10mの丘陵を越えて着地した先は田んぼ。
 数年後、復興事業に携わる人たちの手で地中深くから掘り出され鎮守様の境内に移建された。
熊谷氏はこの庚申塔の謂れを明らかにして、後の世に伝えたいとこの度説明板を設置したもの。
(自費製作)以下は同氏の寄稿文。


庚申塔由来の文 令和3年(2021)10月15日説明板設置


〖 講中11人の名 〗

 文政八年(1825)建立。
講中11名の名が刻まれている。故地の人たちだ。
生業に身を入れるかたわら、講中を組んで神仏に願掛けた事績と信仰の証を残そうとしたのだろう。
 庚申塔は室町時代末期の板碑と結びついて現れ、江戸時代盛んに造られた。
 
〖 意外と知られていない「庚申信仰」と三尸説 〗

 民俗学は広範多岐。庶民宗教では「庚申信仰」は不可欠な分野。
十干十二支の「庚申」(かのえさる)の夜に身を慎んで徹夜すると、長生きが叶うという中国の道教に由来し始まりは平安時代。
貴族社会で行われ中世になると武士や僧侶・庶民にも広がった。
 人間の体に「三尸」(さんし)の虫がいて、庚申の夜に眠った人間の体から抜け出して天に昇り、天帝に罪過を告げて命を縮めるというので眠らずに夜を明かすという「三尸説」を基としている。
天帝とは閻魔大王。
 信仰の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)で三尸を押し止める神、さらに、猿田彦神(さるたひこのかみ)と結びついて神道的な要素が入った。
 庚申の「申」は猿に通じ庚申の使いとしたもので、碑や掛け軸に三猿「見猿・聞か猿・言わ猿」の姿が描かれ彫られているのはここから来ている。
 
〖 全盛期は江戸時代文化文政期 〗

 庚申の日は60日に一度巡って来る。
当番の家に集まって青面金剛や猿田彦神を祀り、般若心経を唱えて飲食をともにして夜を明かした。
 全国に様々な形をした庚申塔が残っているが、その多くは江戸時代のもの。
庶民間で厚い信心が起り、村々の集落ごとに講が組まれて盛行した様子が窺える。
   
〖 祈念と記念の庚申塔 〗

 庚申塔は3年18回続けた記念に街道沿いや村の境目、辻に建てられた。流行り病に罹らないよう健康長寿の願いが転じて、悪疫・災いが村に入り込まないように願掛けしたことを物語る。
「コロナ禍」は衰微をたどるとはいえ、緊張は続く。
古今、息災は命題ーーー様相は異なるも、庚申塔は¨アマビエ¨の全国版になり得たと憶測するのです。

 〖 庚申信仰の結末 〗

 災危を遠ざけて息災を祈った信仰は、単に「庚申様」と称し農耕の作神として豊穣を祈るようになり、明治大正以降も続いた。
が、生活様式などの変転によって次第に廃れ講は解散を余儀なく。
全国の顛末は詳らかではないが、故地のそれは昭和30年代に解散したと記憶している。

 ■■■

 かの大変で被ったこころのキズは異質で癒し難く忘れることはない。
小生もそのひとり。
郷土の先人の物証事蹟を復興再建し、後世に伝え残そうとした願いごとは10年の歳月を費やして漸く叶う。
晴れやかなこころで新しい年を迎えそうだ。


神社位置図 三陸自動車道 気仙沼中央IC下車約5分



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プロフィール

 冨樫 通明  (仙台市在住 ・ ぎゃらりー風の森代表)

Author: 冨樫 通明 (仙台市在住 ・ ぎゃらりー風の森代表)
NPO法人和の学校会員、和の学校仙台分校会員。
茶道を中心とした「和の文化」の実践と普及・拡大そして、昔からあった美しい東北の四季とそれを彩る催しを発信していきます。ドイツで生まれたVEEH HARFE(ヴィーハープ)演奏にも取り組み、癒しの音色をお届けしていきます。

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