風の森通信 第378号


お茶のお稽古

 暖かだった冬、そして今は寒い春。
季節の繰り返しが、ここ北国の仙台でも今年はいつもと違うようです。

「このお茶室でのお稽古は、これまでもやってきたことをこれからもまた同じようにやっていくこと。忘れているということも多いでしょうが、またかなどといわないでしっかりお稽古に励んでください」
「一年前のことをまたやって、半年前にやってきたことをまた繰り返し、一ヶ月前にやっていたことを思い出し、一週間前にやったことをおさらいをして、何度も何度も同じことを繰り返していくのがお稽古ですから」
私の茶道の先生である齋藤宗紀先生から以前お聞きしたお話です。

先生の門を叩いてからもう五年近くが経ちました。
お稽古では先生から言われたことを、ただただ一所懸命やってきたということだけです。
それがお稽古なのだと改めて感じています。
先生を信じてきたからこそ、途中止めることもなくやってこれたのだと思っています。
利休居士や歴代のお家元によって完成されてきたお点前の型と、その精神や道を学ぶことがお稽古。そこでは自分の意見や考えなど入る余地はまったくありません。先生のいわれたことを忠実にやることが、心をそして体を無にしてお稽古をさせていただいてきたということにもなるのでしょうか。
最初は何をするにもいわれるがままで、まるでロボットにでもなったかのような違和感を感じたものです。でも一つひとつの所作が、合理的でちゃんと理由があることも教えていただき、少しずつ理解できるようになってきました。先生は覚えの悪い私に対していつも丁寧に、そして楽しんでやれるようにといろいろ工夫して教えてくださいます。

「お稽古でのお点前には必ず流れがあって、いつまでもそこに留まっていることはありません。一瞬止まったかのように見えたとしても、次の所作を考えることもなく自然に体が動いてくれるようになったらいいですね。手なりとか自然にとかよく言うけどそれがちゃんと出来るようになった時、きれいなお点前そして流れるようなお点前になるはずです。これからも繰り返しのお稽古をしっかりやっていきましょう」とも言われました。

 齋藤先生は茶道について宗教的な難しい言葉を使わず、日常的に使われる言葉でいつも教えてくださる先生です。
「お稽古」という文字を「禅の修行」と置き換えてみれば、なるほどとうなずけることが多いものです。禅の教えも普段何気なく使われている言葉の中にもいっぱい含まれていると思えてなりません。改めてお稽古の中でごく自然にそのことについて接することができるのは本当に有り難いことです。お茶室に坐りお稽古をさせていただいていることも「禅の修業」ということになるのでしょうか。
でもお稽古の中で楽しみにしている瞬間がたくさんあります。
帛紗をさばくときの手や指の直線的でありながらしなやかな動きの瞬間や、四方さばきをしている時の空気が張りつめている瞬間。
煮えたぎった釜の湯の中に、水を柄杓でさしたとき一瞬にして静まりかえる時。
足を運ぶ時、畳から聞えてくる音の連続。
真・行・草のお辞儀をして、目の前の畳を見つめている時。
それぞれの瞬間は、今からまた変わり始めるという流れの中の瞬間です。瞬間の連続がお稽古ということになるのでしょうか、そして幾度も繰り返されていくということも。

「禅」の根本は坐禅だとよくお聞きします。
なかなか長時間正坐しているのは私にとって至難の業です。
痺れないようにするには、坐りながらお稽古を積み重ねることしか解決の方法はなさそうです。
大人になってからの勉強は、自分の好きなことをやっていることもあって、誠に居心地のよいお茶室なのです。
先生に叱られそうですが苦痛や苦労と感じたことは一度もなく、毎週のお稽古が本当に楽しみです。それでは道を修めることは叶わないといわれそうですが、与えられた環境の中では十分に満足しております。
もっと若いときにお茶と出会えればと思っていましたが、逆に団塊といわれる年代になってから出会えたことは、何のしがらみもなく心のバリアもなく、力まず楽しめることを考えたとき最高の出会いであったと感じています。
私にとって死ぬまで続けられる茶道に出会えたことに、今感謝しております。

 今日のお稽古は釣釜(つりがま)での台天目点(だいてんもくだて)そして丸卓(まるじょく)を使った薄茶点前。
先輩たちは釣釜での後炭手前と茶通箱(さつうばこ)そして唐物(からもの)点前。
一日のお稽古でこれだけいろいろなお点前を拝見していると、一ヶ月分のお稽古を一度に体験しているようなものです。
生徒の我々は一番不得手なお点前をお願いしたり、忘備録が不十分なお点前のものを優先してお願いしました。
こんな機会を作っていただいた先生には感謝です。
渡辺先輩がお稽古されたのは唐物点前でした。

photo_19031701.jpg

お茶入がなんともおもしろい形のもので、文琳(ぶんりん)と呼ばれています。文琳は茶入の一種ですが、もとはといえば中国から伝わってきた林檎形をしたお茶入のこと。唐物と扱われているものには、中国では暮らしの中で一般的に使われていたお道具であったともお聞きしました。

 今から九年前になるだろうか、私がいわきで勤務していた頃NHK趣味悠々「茶の湯」という番組が放映されていました。
当時「和の学校」の創設者である伊住宗匠と、現在「和の学校」会員である俳優の辰巳琢郎さんがゲストで、お茶の楽しみ方を中心に番組が構成されていて、ビデオをとりながらテレビを見ておりました。ちょうど私がお茶というものの存在を意識し始め、茶道をやってみたいと思うきっかけになったテレビ番組です。
その中で最後の頃だったと思いますが「茶会に挑戦」という回があり、その時に出されたお茶碗が「高麗塩笥(しおげ)形茶碗」というものでした。形が他のお茶碗とはまったく異なっていたので、今でもはっきりと思い出すことができます。そのお茶碗は朝鮮では塩入れとして使われていた小さな壷で、胴が少々膨らみ口が締まっていてお湯の暖かさが逃げないようになっている形のものでした。辰巳さんがちょうどワイングラスのような形だと、笑いながら言っていたのを今でも覚えています。
当時は中国や朝鮮から渡ってきたお道具が重宝され、お茶入一つで戦をしたこともあるのだと先生からお聞きした。それだけ大事にされ、命をかけてまで守られてきた茶の湯のお道具たち。
今日のお稽古ではもみ手をして、ゆっくり拝見をさせていただくことができました。

 伊住宗匠がお亡くなりになったのが平成十五年二月二日。
早いものでもう四年の歳月が経ちました。
その頃私は茶道の門をようやく叩き始めたばかりでした。
宗匠が晩年力を注いだ「和の学校」は、現在NPО法人として今も伝統文化や伝統芸術を紹介するため、京都を中心に精力的に活動を展開しています。今は奥様の伊住弘美様が伊住宗匠の遺志を継がれ、理事長としてご活躍されております。
伊住宗匠の穏やかなお顔と、茶道の普及と発展に積極的に活動されていた、当時のお姿を偲ぶ一日でもあったのです。


   茶道とは禅の思想ぞ繰り返すことの連続美しきもの

   揉み手して拝見をする中国の暮らしの壷を「唐物」といふ   

                         H19.3.17 冨樫通明


 気候の変化があっても、繰り返すことの実践の時間はいつものとおり静かに過ぎる時間だったのです。

                  

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プロフィール

 冨樫 通明  (仙台市在住 ・ ぎゃらりー風の森代表)

Author: 冨樫 通明 (仙台市在住 ・ ぎゃらりー風の森代表)
NPO法人和の学校会員、和の学校仙台分校会員。
茶道を中心とした「和の文化」の実践と普及・拡大に取り組んでいます。
昔からあった美しい東北の四季、それを彩る催しなどもお届けしていきます。

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