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風の森通信 第2296号


小屋館城跡銘碑揮毫


 令和3年9月6日(月)「古谷館八幡神社」の境内に「小屋館城跡」碑が設置されました。
碑銘揮毫は仙台市宮城野区在住の書家熊谷喜美雄氏によるものです。
9月15日には古谷館の歴史を記した説明板も銘碑の脇に設置されることになっています。

古谷館八幡神社ブログに詳細がアップされておりますので是非ご覧ください。



2021年9月6日 城跡碑建立


以下熊谷氏からのコメントです。


 江戸時代初頭に先祖が定住した故地気仙沼。生業のすべてが大地震大津波で消え失せた。
しかしながら、小高い鎮守の森の産土様は地域を守り、心を寛大に導いて安らぎに満たされる。
 当家は神社を出自(江戸時代寛永年間に分家として最初期・18代継承)としているゆえに、とりわけ愛着が深く折々に重要な役割を果たす。神社の御大典記念「城跡碑建立」も大切な事業企画のひとつ。
碑銘揮毫は一族後裔に連なる人であれば…との宮司の願いがあって、小生に指名の矢が及んだ次第。

「古谷館八幡神社」由来

・永承6年(1051)前九年の役が起り、陸奥守兼鎮守府将軍・源頼義奥州遠征。
 この時、武運を祈願し神社を勧請創建。
・天喜5年(1057)源頼義の長子・義家が修復。
 
「小屋館城」沿革

 文治5年(1189)8月、源頼朝が奥州藤原氏を討滅したとき、征討軍に加わった
御家人熊谷直実の長子・直家は、勲功あって気仙沼・桃生地方を給与されました。領地に赴いたのは直家二男(三男とも)直宗。貞応2年(1223)のことで赤岩城を統治府とし、数代を経て領内に支城を構え威勢を示しました。
 小屋館城の構築は、建武2年(1335)赤岩城四代直晴六男・直景とする記録がありますが、三代直光二男・直定の説もあります。以来、250余年間気仙沼地方の南部を固める堅塁を誇りました。
   
 天正18年(1590)、全国統一を目論む豊臣秀吉の「奥州仕置」が襲い掛かり、葛西氏に属していた熊谷氏は時勢に抗しきれず主家と命運をともにしたのです。最後の城主は熊谷左京進信直で時勢を見通したか高野山真言宗金剛峯寺に逃れ、のち帰郷して法印となり城跡の神社を管掌しました。
爾来、33代継承して熊谷正之氏が宮司を務めています。 

㊟ 江戸時代初期の延宝年間、仙台藩が幕府に提出した『仙台領内古城書上』に、「山一 小屋館城 東西十七間 南北七十八間 城主熊谷左京進」と記されています。
 
発掘調査で城の全容が解明

 平野に突き出た丘陵の南端にある小屋館城は、幅約20~40mの尾根上に南北約350mにわたって築かれ、神社が鎮座する南側と一段低い北側の二つの平場に分かれています。

 平成7年度に神社移設の際、事前調査で境内平場の南側に堀跡と土塁跡が発見されました。
また、平成26年から令和元年にかけて、三陸沿岸道路建設に伴う宮城県による発掘調査があり、城の北側を断ち切って防御する二重の空堀跡が発見されました。それは、北側は西側に続く丘陵尾根があるので、攻撃される弱点を補完するための策かと。
堀から陶器片と400個以上の飛礫(つぶて)が出土しました。これは敵を撃退するための石と考えられます。
現在、堀跡は大きく削り取られ三陸沿岸道路が走っています。


2005年3月10日 震災前の故地
神社の平場から大島亀山を望む
(JR気仙沼線が松岩駅に停車している)



2011年10月15日 震災後の故地
神社の平場から大島亀山を望む
(中央やや下に破壊されたJR気仙沼線松岩駅ホームが見える)
築城した鎌倉時代、海岸は神社下(館下)まで迫っていたと考えられる。


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プロフィール

 冨樫 通明  (仙台市在住 ・ ぎゃらりー風の森代表)

Author: 冨樫 通明 (仙台市在住 ・ ぎゃらりー風の森代表)
NPO法人和の学校会員、和の学校仙台分校会員。
茶道を中心とした「和の文化」の実践と普及・拡大そして、昔からあった美しい東北の四季とそれを彩る催しを発信していきます。ドイツで生まれたVEEH HARFE(ヴィーハープ)演奏にも取り組み、癒しの音色をお届けしていきます。

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